歴史

岩倉使節団の目的って何?なぜ留学生が?津田梅子が選ばれた?

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2024年から登場の新5千円札に津田梅子が選ばれました。

彼女について調べてみると、岩倉使節団についてアメリカに留学したそうです。

岩倉使節団ってそんな目的ってあったっけ??

留学生も全部で43人もいたらしいです。

少しばかり歴史に詳しいつもりでいましたが、僕もまだまだだな(笑)

  

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岩倉使節団の目的って何?

岩倉使節団って、僕の記憶の中では幕末に結ばされた不平等条約の改正を交渉する為と視察と言う名の観光旅行だけに行ったものだと思っていました。

まあ、それはそれで第一の目的ではあったわけなんですよね。

でも、歴史を上っ面でしか見ない僕にはそこにしか目が行ってなかったってことで反省しております。

その中で、使節団が目にしたものは、圧倒的な国力を持った欧米列強各国でした。

もちろん、条約改正の話は突っぱねられ、あまりの日本との国力の差に愕然とさせられたことでしょう。

結果、目的を果たすことなく帰国することになります。

そこで、留守を守っていた西郷達が主張していた韓国併合の動きと、早急に国力を上げたいと考えた使節団側とで対立が起きて西南戦争へと向かっていくわけです。

まさに、これは歴史を知っている人なら誰でも知っている話です。

もし、あなたが知らなかったっていうなら今書いた通りです。

実はこの表舞台の歴史ではなく、この見えないところで未来の日本につながる使節団の大きな成果があったんです。

それが、留学生を同行させたことです。

岩倉使節団になぜ留学生が一緒に行った?

明治新政府にとっては、日本の古い考え方を改め欧米にとにかく早く追いつきたいという思いがありました。

今風に言うと完全に西洋かぶれです。

だから、若い人材に西洋の知識を学んでもらう必要があったんです。

西洋文化を学び、どんどんと日本に取り入れて来たかったんです。

そこで、43人の若者が国費での留学という事で同行したわけなんです。

彼らは10年の留学で、様々な分野の知識を日本に持ち帰るという目的がありました。

実際にこの中から日本の将来に大きく関わっていく人材が育っています。

そのうちの一人に津田梅子がいました。

しかし、津田梅子はこの当時満6歳。

親と別れる寂しさはいかほどかと思いますね。

こうやって、国の為にわずか6歳の女の子を海外に留学させるという考え方自体がまさに古くからの日本的なところです。

それでも、女子留学生は津田梅子を含めてわずか5名でした。

しかも、そのうち2名はホームシックにかかって日本に帰国してしまいます。

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岩倉使節団に津田梅子が選ばれたのはなぜ?

北海道開拓使次官の黒田清隆という人がいました。

彼が、アメリカに行った時に出会ったアメリカ人女性の教養、社会的地位の高さに感銘を受けます。

帰国後、

「次の世代を立派に育てるには、教養のある母親が不可欠。そのためには女子教育を振興すべき」

という意見書を太政官に提出し、欧米への女子留学生派遣を求めます。

この提案が通ったことで、急遽留学期間10年、必要経費は官費で賄い、更に800ドルもの小遣いを支給するという好条件で、女子留学志望者を募集しました。

津田梅子の父親・津田仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託になっていた関係もあって、黒田が企画した女子留学生に自分の娘・梅子を応募させました。

5人の女子留学生たちの最年長は14歳、梅子は最年少で満6歳にすぎませんでした。

見送りの中には

「あんな小さい娘をアメリカにやるなんて、鬼のような母親だ」

と囁く人もいたようです。

津田梅子は1882年に帰国しますが、その時には日本語を完全に忘れていたそうです。

ほぼ、アメリカ人と言ってもいい状態で日本に帰ってきました。

むしろ、梅子にとってはその日本の女性蔑視的な考え方の方がカルチャーショックであったことでしょう。

それでも、再度のアメリカ留学した後は、日本の女性教育の機運の高まりに乗って1900年に女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立ししました。

話はなぜ、「岩倉使節団に??」

に戻ります。

津田梅子が参加した理由というのは上に書いた通りです。

将来的にここまで女性教育に人生をを捧げるような人材だったっていうのは結果としてみると、歴史の中で必然だったのかもしれません。

岩倉使節団に同行してなかったら、女性教育や地位向上はもっと遅れていたかもしれません。

結婚することなく、その身を日本の女性に捧げた功績は計り知れません。

まとめ

・岩倉使節団の本来の目的は、条約改正や海外視察だった。

・条約改正は、失敗に終わったが、その裏で将来的に大きな成功を収めていた。

・津田梅子が使節団に同行して留学できたのは、いろいろな事情はあって実現したが、結果的に見ると歴史的にとても必要な事であったこと。

今回の記事を上のようにまとめてみました。

新5千円札にふさわしい人物が選ばれたようで安心ですね。

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